今日、会社の先輩のお通夜があった。
正直言って、信じたくないというのが本音だ。
現実は、間違いなく、亡くなっていた。
人はいずれ死んでしまうのだけど、その命、どうにか繋ぎ止めることはできなかったのだろうかと思ってしまう。
僕より1つ上、まだまだ若い。
致命的な病気だったのかさえ、まだはっきりと教えられていないのだけど。
生きていてくれたら、いづれは会社の組織職の一角になっている人だった。
お通夜の会場に着いたら、駐車場から溢れるほどに車があった。
あまりの数に道路は渋滞。
僕は一旦葬儀場を離れて、30分ほど時間をズラして再び葬儀場に向かった。
お通夜で、この数の人が来ている。
そこでも会社の同僚に何人か会った。
一様に、寂しさの影がある、遠い目をした表情だった。
恐らく僕もそうなのだろう。
明日の葬儀は更に参列される方が多いのだと思う。
葬儀に参列する人というのは、太さはまちまちだけど確実に故人と縁、絆を持っている。
つまりは、参列する全ての人が味方だ。
1人の人の後ろには、これほどに多くの人がいるのだ。
困ったら支えてくれる。なにかあったら駆けつけてくれる。そんな人たちが沢山いる。
切ないけれど、もう戻ってきてくれないけど、多くの人の悲しみが溢れてとまらない。
人は、その後ろに多くの人の支えを受けているし、僕も誰かを支えているひとりなのだ。
いつも前を向いて、気分上々でいたいけれど、喪失感の前では無力であるということ。
その無力さに打ちひしがれる時間も必要であること。
そんなことを思いながら、風に身を任せて、凪の中に身を置いている。